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片岡 康子

Yasuko KATAOKA

Q1.Tanzelix3月8日公演に向けての準備期間を通じての想い、感想。

 Tanzelixが、一体どんな会になるのか全く分からないまま、「母校」のためにと引き受けた実行委員でした。実行委員会は主にSlackで連携業務を進める新手法、その中でも若手委員との触れ合いは強まり、次第に3月8日の成功に向けて心は一つになりました。

第一部では源流を辿り、流れ出た水脈の65年を振り返る。第2部では、今、咲き誇る個性の花々に触れる。つまり東教大に蒔かれた一粒の種子「自由な自己表現」、その後の「創作ダンス」を中心にしたダンス学習法研究の進展、さらに筑波に移植されて咲いた大輪の花々、その65年の壮大なプロジェクトが眼前に繰り広げられるはずでした。残念ながら中止になりましたが、驚異の迅速さと緻密さで後始末業務をこなした若手委員には心から感謝しています。

Q2.対談にて伝えたかったことを少しだけ教えていただけますか?冒頭のごく一部、もしくはざっくりとした概要でも構いません。復活公演への期待もこめて。

 幼い時から意のままに踊ることか好きだった私は、クラシックバレエと新体操競技にも熱中して10代を過ごし、選んだ進学先が東京教育大学体育学部。高2の時に東教大卒の体育の先生が着任、憧れの2つ上の先輩が進学と、一気に身近な大学になり、滑り止め無しの東教大体育一本という気合の入れようでした。

まずその大学入試のダンス実技の話です。なんと実技課題は思いつくままに、自由に、好きなように踊って良い「即興表現」。当時の体育系大学はほとんど「既成作品」でしたから、どれだけ新しいことか分かりますね。入試なのに「楽しかった」という記憶がその場面と共に脳裏に焼きついています。

続いて体育学部開学時の話になります。女子学生は1名(1949・5・31)。後に附属小で松本千代榮先生の理想とする表現・ダンスの実践者となった相場了先生です。千代榮先生の赴任(1952・4)を契機に、奈良附小に始まる「自由な自己表現」は東教大に移植されました。私は1959年4月入学、11期生です。女子30名(男子120名)のうちダンス部に10名入部。ダンス部員は4学年合わせて25名となり、10坪ほどの狭いダンス小屋から大きな体育館に進出して練習できるようになったのでした。その3年後には、他大学に先んじていち早く自主公演初開催(1962・4)と東京教育大学ダンス部は勢いづいていきました。また4年次には男子もダンス必修になるなど、東教大体育学部は男女共学で体育界の先端を走り、群を抜いた存在になっていたと思います。

 東教大で、千代榮先生が教育的価値を説いて学習指導要領に位置づけた「創作ダンス」に出会ったことが私の人生を決めました。やがて舞踊学講座・修士課程設置(1964・5)。その翌年、初の舞踊学講座院生として大学に戻った私は、「舞踊学」という学問の夜明けに立ちあい、舞踊が学問になる喜びを体験しました。

1969年、筑波大学移転反対闘争ストライキで入試中止という大波乱を経て、筑波大学は開校しました(1974年、1期生入学)。筑波大学移転数年後、奮闘する筑波大学ダンス部を応援しようと、東教大ダンス部卒業生発起人集会を開催して東京教育大学・筑波大学ダンス部同窓会を立ち上げました。以来毎年、同窓会一員として会費納入とダンス部公演の鑑賞を続けて母校を応援し続けています。

一方で1971年4月、私は舞踊学講座教務補佐の職を離れて、お茶の水女子大学舞踊教育学コース創設のために千代榮先生と共に赴任(同期石黒節子さんも共に赴任)。それから35年間、実技と理論の両輪で走り続け、博士課程まで舞踊メジャーで学位取得できる我が国唯一の拠点としての発展に尽力して退職。今年、お茶大舞踊教育学コースは創設50年目を迎えています。

松本千代榮先生を源流とした筑波大舞踊とお茶大舞踊がアカデミズム拠点として互いに独自の理念を探究しながら、今後も誰もが自由に踊るダンスの権利を保障し、生活を豊かにするダンスを広め、芸術としての高みを極める活動を展開することを願っています。

Q3.同窓生へ、そして現役生へのメッセージ。

 筑波大学ダンス部・舞踊研究室は、不動の位置を保持するプレッシャーと戦いながら、安住することなく殻を破って飛び出す気概と実力を持った集団となっていますね。そうした環境で育ちつつある現役生、歴史を紡いできた同窓生の皆さんが教育界・芸術界において、今後、益々活躍されることを期待しています。パラダイムシフトする「ポスト・コロナ時代」には身体・表現・ダンスのパワー・エネルギーが高まると信じます。その時、Tanzelixは不死鳥のように甦ることでしょう。

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