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​高橋 和子

Kazuko TAKAHASHI

Q.対談にて伝えたかったことを少しだけ教えていただけますか?冒頭のごく一部、もしくはざっくりとした概要でも構いません。復活公演への期待もこめて。

50年前の出来事を今の私の目線で記憶を頼りに綴ってみたいと思います。

私が東京教育大学に入学した1971(昭和46)年は、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が日本レコード大賞を取り、ジョン・レノンの「イマジン」が世界に流れていた年でした。大学では、先輩達が筑波移転反対闘争(東京教育大学が筑波研究学園都市構想に乗って、大学移転)の真っ只中。山形の女子高出身の私は、高校時代のテニスを続けるか迷っていましたが、入学式の梅田利兵衛学部長の挨拶に感化され、その日のうちにダンス部を訪れていました。

4月の公演を前にして、4年の部長の阿南久さん(2013年8月より消費者庁長官)は、私を音楽係に抜擢しました。実に民主的な対応に私は身震いしながらもオープンデッキの操作を、踊りに合わせてやりました。今考えれば、私を見込んでと言うよりは、猫の手も借りたい状況だったのでしょうが、この出来事が私のダンスへの運命的な出会いになりました。久さんの作品「野獣」は衝撃的でした。

公演が終わると4年生は引退し、3年生の三浦部長のもと、実に個性豊かな先輩達がリーダー学年になりました。合宿中もグラウンド脇に建つ宿舎から夜抜け出す先輩がいたり、後輩を前に大げんかをしたりと、ダイナミックなドラマが始終展開したことを覚えています。ゴーゴー喫茶に連れて行ってもらったのも、階段教室脇の食堂で開かれたダンスパーティのために、柔道部の人に社交ダンスを教えたことも、みんな3年生のおかげです。

2年生になった1972(昭和47)年は沖縄返還や札幌冬季オリンピックで日本は沸き立っていました。新入生として蜂須賀さんや木村真知子さんら10名が入部しました。そしてその翌年1973(昭和48)年になるとオイルショックが起こり、高度経済成長期も終焉を迎えます。ダンス部には吉田和子さんと伊藤良子さんの新入生2名が入部しました。不安定な日本経済も影響してか、私達の作品は「ええじゃないか」でした。それも、武蔵野音楽大学の学生さんに作曲と演奏を依頼し、虎ノ門ホールで生演奏で行ったのです。今思えばよくもエネルギーがあったものだと思います。また、国際女子体育連盟の国際会議がイランで開催され、松本千代栄先生らのレクチャーデモンストレーションの踊り手として、初めて海外渡航も経験しました。この頃からコーチは正田千鶴先生から河野潤先生に変わりました。

1974(昭和49)年、4年になると、筑波大1期生の溜池陽子さん、小松孝子さん(娘さんは若井さん)、望月恵子さんが入学してきました。何とか東京教育大と筑波大をつなげようと、筑波の後輩は私達の下宿に分散して泊まり合宿をしました。うまくつながらなかった部もあると聞きますが、ダンス部はこのようにしてつながっていきました。

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